平野雅彦が提唱する情報意匠論| 脳内探訪(ダイアリー)

平野雅彦 脳内探訪

嘆願書に祝賀会

syuku


 視力の低下が著しい。眼鏡をかけていてもほとんど見えない。通りの反対側を歩いている人に突然声をかけられてドキッとする(無視していません〜)。
 理由はわかっている。薄暗いところでの読書。乗り物に揺られながらの読書。パソコンの画面の睨みすぎ。この眼の酷使三重奏によるところが大きい。そうそう、根本問題を挙げ忘れていた。加齢のせいだ(カレーが食べたい)。


 ひじょうに個人的なことなのなので、ここに綴ろうかどうしようかずっと迷って来たが、改めて関係したみなさまにお礼が云いたいので記すことを決めた。

 毎年この時期にはわたしがお世話になっている国立大学法人・静岡大学の卒業式があり、併せて卒業祝賀会というものが催される。この祝賀会なるもの、学生と先生が「おめでとう。社会に出ると、もっと大変だぞ。たまには報告しろよ!」 「こんなわたしが就職できたのは先生のおかげです。先生、ありがとうございました」とエールの交換をする場であり、また積年の恨みを晴らす場でもある(もちろん比喩的記述)。 
 ただし、そこには非常勤講師の頭数は入っていない。祝賀会は学生と(正規職員としての)先生の「聖域」なのだ。どんなに学生と(非常勤)講師の関係がミツであろうと、そこには形式的な深い溝が存在する。
 理由はわからない。経費の節減かもしれないし、非常勤は日々の授業だけきちんとやっていさえすればそれでいいというものかもしれない。もともと非正規雇用というのは、そういうものだ(きょうのニュース、ききましたか?非正規雇用の人数が就労人口の三分の一をこえたらしいですぜ)。とにかく出席不可の理由を非常勤に説明する義務は、最初から大学側にはない(小二田先生のブログ
http://blog.goo.ne.jp/koneeta/e/169be2efe5865929e402403a9047babe
を読むと理由はわかるが、大学からの説明はもちろんない ←ここから小二田先生が書かれた祝賀会のいくつかの記述にとべる。必読)。
 負け惜しみではないが、わたしは祝賀会に出席したいわけではない。ただし、こんなわたしだって、目に入れても痛くない学生が大勢いる。その場でお祝いしたい。お決まりの「おめでとう。社会に出ると、もっと大変だぞ。たまには報告しろよ!」 「こんなわたしが就職できたのは先生のおかげです。先生、ありがとうございました」と言い合いたいのである。当たり前のことを当たり前にできないことの辛さがそこにはある(これは叫びである!)。
 実は一ヶ月ほど前、ある学生から、万が一祝賀会に出られなくても(大学から許可が下りなくても)、わたしたちが別の場所を用意しますね!と言ってもらった。わたしはそれだけで、もう十分だった。それがたとえ言葉だけでも心の底からうれしかった。目頭が熱くなって、風景がにじんで見えた。だが学生たちは、いつの間にか大学へ「平野を祝賀会に出して欲しい!」という嘆願書まで提出してくれていて、先日、晴れて祝賀会出席の許可が出たという報告をいただいた。 
 もう一つ、先にも記したが、出席の許可が出た理由は、言語文化学科の小二田先生が何度も、何度もご自身のブログにこの件を書き続けてくださったことが大きい。

 ここまで書いたら、ある学生からちょうどメールが届いた。
   
  嘆願書にわたしも署名しました〜。袴姿、見てください〜。

 
 こういうみなさんによって、今のわたしは支えられている。視力の低下は涙のせいかもしれないね。

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